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かもめのマリーが頑張って更新するブログ

「青春」という言葉は美化されすぎている

ミニマリストは甘え、かもめのマリーの伊藤です。

 

先日、私用で明治大学を訪れた。

その日は休日だったけど、ちらほらと学生の姿があって、ダサい黒縁丸メガネの男と、寺生まれかと見紛うほど腕に数珠をつけてる男が楽しそうに談笑していた。その少し向こうでは運動部らしいジャージを着た女子大生たちが「あついね」とか言いながら歩いていて、なんだか遠いところに来たような気分になった。数年前までは自分も大学生で、大学という場所には自然に溶け込めていたはずなんだけど、今やその光景を見ていても、「なんか青春っぽいな」とか、そんな年寄りじみたことを考えてしまう。

 

そんな風に、なんとなく、青春は良いものだと扱われることが多いような気がする。

「青春」という言葉には、甘酸っぱさや、爽やかさや、誰もが一度は経験した淡い恋、みたいな溌剌としたイメージが付きまとっている。

 

昔、就職活動をしていた頃、とある企業説明会で人事部のおっさんが、暑苦しく仕事のやりがいについて語っていた時に、「僕はもう50歳近いですが、自分は今でも青春だと思っています。」と言ってて、僕はなんとも言えない恥ずかしさを覚えてしまった。

青春って、そんなにいいか?美化しすぎてるんじゃないか?

同じような人はけっこういると思うけど、思い返すと僕には、言葉通りの美しい青春時代なんて1秒もなかった。若い時の失敗や、人間関係のこじれは、青春はいかにも肯定してくれそうだけど、僕にとってそれらはただ苦い思い出となって、未だにしこりのように心に残っている。僕は毎日のようにそれを思い出しては、「なんであんなことになったんだろう」とか「なんであんなこと言ったんだろう」とかいちいち身もだえしている。しかも苦い思い出は無くならない上、今日も新しく更新されている。そんな時に「時をかける少女」を見て、「青春っていいよね」みたいな価値観を押し付けられて不快だったから今の文章を書いている。「女の子が大声で泣く」という細田守がよくやるあの演出もいい加減不快だったのでそれも書く。青春パンクも不快である。下北沢も行ったことないけど不快である(青春パンクの残滓がありそうだから)。「アオハル」なんて、字面だけで最悪である。そもそも青春という言葉を使って不快じゃないのは「青春学園」だけである。「百錬自得の極み」だけである。僕は「百式で河村が客席まで吹っ飛ばされたシーン」でようやく「この漫画おかしくない?」って気づいたんだけど、今思えば「菊丸が二人に!?」の時点でおかしかった。

 

閑話休題。 

青春を盲信して、年食ってもそれに固執してるやつは、つまり「若かったあの頃に戻りたい」ってことなのだろうか。青春なんてそんなにこだわるほどのもんではないと僕は思うのだが、それはただ自分がまだ若いからってだけなのかも知れない。本当に戻ることができないくらい時間が経ってしまった時、同じことが言えるか、というとそこは疑問だが、今は青春なんかより、大人になることの方を楽しみたいと思っている。というか書いてて途中で気づいたけど、いい歳してロックを叫ぶやつに対する感想と内容ほとんど一緒だった。

 

そんなかもめのマリーの次のライブは大阪です。

7月30日(土)@扇町para-dice
『 Bossa/ Nova vol.10』
op/st 18:00/18:30
adv/door 1500
act...
murmurmoo
CHAINS
NDARICCA
かもめのマリー
チーム中西良太(ac)

 

未来で待ってる。